名参謀 豊臣秀長

1. はじめに

 今年の大河ドラマは「豊臣兄弟」です。実弟の豊臣秀長は大和郡山城の城主で会ったことは知っていましたが、兄秀吉の天下統一を支えた陰の立役者であったことは知りませんでした。寺社仏閣勢力の根強い奈良の地をどのように再建したのか、彼の足跡をたどってみます。

2. 秀長の打った手

 当時の大和の地は有力大名がおらず、興福寺等の強力な寺社勢力が自治権をもつ閉鎖的で保守的な地域でした。
(1) 郡山城の拡張
 寺社地域の中心地を、郡山城の城下町に強制的に移した
(2) 太閤検地の実施
 寺社が隠し持っていた土地のデータを可視化した
(3) 既得権益への配慮
 寺社の領地を保証し、彼らのメンツを立てて不要な摩擦を回避した
(4) 箱本 (はこもと) 制度の実施
 承認を寺社の支配から切り離し、城下町の管理下に置いた

3. 秀長の人心掌握術

秀長は力で抑えるのではなく、相手の立場を尊重しつつ、実利で味方につける手法を取りました。
(1) 有力な寺社に対し、これまでの領地や特権をある程度認める姿勢を取り、古いものを壊しにきた敵ではなく、秩序を維持する守護者であることを示し、警戒心を解くことに注力しました。
(2) 自分の部下で配下を固めず、地元の有力者や筒井氏の旧臣達を登用しました。彼らを変革の実行部隊に任命し、心理的な抵抗を和らげました。
(3) 実利を可視化して提示しました。寺社の支配下にあるよりも秀長のルールで商売する方が儲かることを示しました。

4. むすびにかえて

 秀長は、自分が表に出る前に、彼らと同じ言葉を使い同じ価値観を共有する地元の有力者をパイプ役に置きました。地域の力関係や本音を把握し壊されるという恐怖心を和らげ、事前の根回しで根強い反発を防ぐことに注力しました。「新しい体制になっても皆さんの地位や伝統は守られる」と、彼らを説得することに成功しました。
 豊臣秀長の成した業績と、それまでのプロセスを見て、彼が兄秀吉を支える名参謀であったことがよくわかりました。彼は1591年 (天正19年) に52歳で亡くなりました。彼が家康くらい長生きしていたら、日本の歴史は大きく異なっていたことは間違いないと思います。