ゴールデンウィークに70年ぶりに家内と岡山県高梁市に行ってきました。私事ですが、小学校1年生まで高梁市に住んでいたので、懐かしい小学校を訪問し、学校の隣の山田方谷記念館を見学してきました。岡山県人として、山田方谷は殊の外親しみがあります。
山田方谷は幕末の備中松山藩 (岡山県高梁市) の財政改革・教育改革・軍事改革を実施した政治家・財政家です。藩主 板倉勝静が老中になると江戸に出て将軍 徳川慶喜を助け大政奉還の上奏文を起草した事でも有名な人です。また、米百俵で有名になった長岡藩の河井継之助も彼の弟子で、司馬遼太郎「峠」で映画化されました。
備中松山藩の城は、現存する山城の中で一番高いところにある事でも有名です。 当時の松山藩は5万石でしたが、実質は2万石以下で、しかも借金は10万両、今のお金で言えば約600億円もあったそうです。方谷は財政再建を実施して、わずか7年で借金を完済した上に10万両の余剰金を残しました。この事が藩主 板倉勝静が老中になる道を開き、日本一の財政家として有名になりました。財政改革といえば内村鑑三の「代表的日本人」で紹介した上杉鷹山が有名ですが、彼の改革に要した年数は50年以上といわれていますので、たった7年で成し遂げた山田方谷はその道の達人だった事がわかります。その証拠に、明治の世になり、かの大久保利通等から何度も財政顧問の要請がありましたが、山田方谷は固く断り続けたそうです。財政問題に悩んでいた明治政府にしてみれば、よほど方谷の財政手腕が欲しかったのでしょう。しかし明治以後の方谷は、岡山藩の藩校 閑谷 (しずたに) 学校の再建と一般市民の教育に注力しました。また、岡山県にはJR伯備線が通っており「方谷」という個人の名前がついた、日本でもめずらしい駅があります。
山田方谷がどんな改革をしたのか、興味あるところです。 彼の基本は「理財論」と呼ばれています。それは「緊縮財政と倹約だけでは社会も民衆も萎縮してしまう。領民が報われ豊かになるように、活力を与えるようにしなければならない」という考え方でした。 (1)産業の振興 新しい時代の潮流にのった政策で、切り札は鉄と銅でした。彼は、鉄と銅の採掘を藩の直轄とし、三本歯の備中鍬を改良して全国に普及させました。また、火事の多い江戸に鉄釘を高値で売るために、高梁川を下り玉島港から大消費地の江戸に直接販売するようにしました。 (2)負債の整理 山田方谷は藩の実情を包み隠さず債権者に公開し、協力を得る事が打開の第一歩だと考えました。自給自足を基本とする米本位制が当時既に貨幣経済に移行しているにも関わらず、農民の年貢に依存している事が藩の財政を悪化させている原因である事を見抜いていた山田方谷は、大阪蔵屋敷を廃止の上、蔵米を藩で直接保管して有利なときに直接販売し、現金化を図りました。 (3)藩札の刷新 他藩同様、備中松山藩も大量の藩札を発行していました。山田方谷は民衆の不安を取り除くために、準備金に裏付けられた新藩札を作り旧藩札と交換しました。回収した旧藩札は全て焼却処分しましたが、朝8時~夕方4時までかかったそうです。新藩札は信用力が高く他藩にまで流通しました。 (4)上下の節約 山田方谷はまず自分の俸禄を大幅に削減する事を藩主に申し出ました。それから藩士の減俸と倹約、賄賂等の禁止策を実行しました。また、藩主も率先して倹約の範を示し、木綿の衣類、粗末な食事をしたと伝えられています。元々貧しい農民には手をつけませんでした。そもそもの財政悪化の原因が武士階級にあったと考えたからです。 (5)教育の改革 山田方谷は庶民の教育にも力を注ぎました。優秀な生徒は士分に登用し、役人に抜擢したそうです。後に、倉敷紡績・大原美術館を創立した実業家、大原孫三郎等、多彩な人材が輩出されました。 (6)軍事の改革 備中松山藩は国境の守備にも注力しました。西洋式の砲術や銃陣の採用は藩士の多くが乗り気でなかったので、山田方谷は里正隊と呼ばれた農兵制度を作りました。高杉晋作の奇兵隊よりも6年早かったそうです。
大学の授業で、経済とは経世済民の略であると学びました。山田方谷は、まさに、経世済民を実践した人でした。当時の藩は家でした。家は出入りを増やして出を制し家の存続を図ろうとします。それは家計であり経済ではありません。多くの藩が赤字財政に苦しんだのは、年貢を増やし支出の削減をしたからです。増税をして財政出動を抑制するとお金が回らなくなり、経済はデフレに陥ります。バブル崩壊後の失われた30年の日本経済も同じ状況と言えます。日本の財務省は家計の思考から経世済民へ、民が安心して暮らせる世の中を作るために、山田方谷の改革を真剣に学ぶべきだと思います。 最後に、私の母は教師でしたが、山田方谷が晩年に教えた思誠塾の跡地に立つ思誠小学校の卒業生であり、また、岳父の田村英雄は藩校閑谷学校の跡地に建つ旧制閑谷中学の出身でした。帰る途中で母校岡山朝日高校に立ち寄りました。旧制第六高等学校の跡地に懐かしい建物が残っており、運動場に立つと当時が想い出され至福の刻を過ごすことができました。
1.はじめに
2.山田方谷先生
3.備中松山藩の実情
備中松山藩の城は、現存する山城の中で一番高いところにある事でも有名です。
当時の松山藩は5万石でしたが、実質は2万石以下で、しかも借金は10万両、今のお金で言えば約600億円もあったそうです。方谷は財政再建を実施して、わずか7年で借金を完済した上に10万両の余剰金を残しました。この事が藩主 板倉勝静が老中になる道を開き、日本一の財政家として有名になりました。財政改革といえば内村鑑三の「代表的日本人」で紹介した上杉鷹山が有名ですが、彼の改革に要した年数は50年以上といわれていますので、たった7年で成し遂げた山田方谷はその道の達人だった事がわかります。その証拠に、明治の世になり、かの大久保利通等から何度も財政顧問の要請がありましたが、山田方谷は固く断り続けたそうです。財政問題に悩んでいた明治政府にしてみれば、よほど方谷の財政手腕が欲しかったのでしょう。しかし明治以後の方谷は、岡山藩の藩校 閑谷 (しずたに) 学校の再建と一般市民の教育に注力しました。また、岡山県にはJR伯備線が通っており「方谷」という個人の名前がついた、日本でもめずらしい駅があります。
4.6つの改革
山田方谷がどんな改革をしたのか、興味あるところです。
新しい時代の潮流にのった政策で、切り札は鉄と銅でした。彼は、鉄と銅の採掘を藩の直轄とし、三本歯の備中鍬を改良して全国に普及させました。また、火事の多い江戸に鉄釘を高値で売るために、高梁川を下り玉島港から大消費地の江戸に直接販売するようにしました。
彼の基本は「理財論」と呼ばれています。それは「緊縮財政と倹約だけでは社会も民衆も萎縮してしまう。領民が報われ豊かになるように、活力を与えるようにしなければならない」という考え方でした。
(1)産業の振興
(2)負債の整理
山田方谷は藩の実情を包み隠さず債権者に公開し、協力を得る事が打開の第一歩だと考えました。自給自足を基本とする米本位制が当時既に貨幣経済に移行しているにも関わらず、農民の年貢に依存している事が藩の財政を悪化させている原因である事を見抜いていた山田方谷は、大阪蔵屋敷を廃止の上、蔵米を藩で直接保管して有利なときに直接販売し、現金化を図りました。
(3)藩札の刷新
他藩同様、備中松山藩も大量の藩札を発行していました。山田方谷は民衆の不安を取り除くために、準備金に裏付けられた新藩札を作り旧藩札と交換しました。回収した旧藩札は全て焼却処分しましたが、朝8時~夕方4時までかかったそうです。新藩札は信用力が高く他藩にまで流通しました。
(4)上下の節約
山田方谷はまず自分の俸禄を大幅に削減する事を藩主に申し出ました。それから藩士の減俸と倹約、賄賂等の禁止策を実行しました。また、藩主も率先して倹約の範を示し、木綿の衣類、粗末な食事をしたと伝えられています。元々貧しい農民には手をつけませんでした。そもそもの財政悪化の原因が武士階級にあったと考えたからです。
(5)教育の改革
山田方谷は庶民の教育にも力を注ぎました。優秀な生徒は士分に登用し、役人に抜擢したそうです。後に、倉敷紡績・大原美術館を創立した実業家、大原孫三郎等、多彩な人材が輩出されました。
(6)軍事の改革
備中松山藩は国境の守備にも注力しました。西洋式の砲術や銃陣の採用は藩士の多くが乗り気でなかったので、山田方谷は里正隊と呼ばれた農兵制度を作りました。高杉晋作の奇兵隊よりも6年早かったそうです。
5.むすびにかえて
大学の授業で、経済とは経世済民の略であると学びました。山田方谷は、まさに、経世済民を実践した人でした。当時の藩は家でした。家は出入りを増やして出を制し家の存続を図ろうとします。それは家計であり経済ではありません。多くの藩が赤字財政に苦しんだのは、年貢を増やし支出の削減をしたからです。増税をして財政出動を抑制するとお金が回らなくなり、経済はデフレに陥ります。バブル崩壊後の失われた30年の日本経済も同じ状況と言えます。日本の財務省は家計の思考から経世済民へ、民が安心して暮らせる世の中を作るために、山田方谷の改革を真剣に学ぶべきだと思います。
最後に、私の母は教師でしたが、山田方谷が晩年に教えた思誠塾の跡地に立つ思誠小学校の卒業生であり、また、岳父の田村英雄は藩校閑谷学校の跡地に建つ旧制閑谷中学の出身でした。帰る途中で母校岡山朝日高校に立ち寄りました。旧制第六高等学校の跡地に懐かしい建物が残っており、運動場に立つと当時が想い出され至福の刻を過ごすことができました。